大阪のAI動画・ホームページ制作会社

AI時代にこそアナログが必要。だけどそれは「コンテキストを詰めろ」という話でしかない

AI時代にこそアナログが必要。だけどそれは「コンテキストを詰めろ」という話でしかない

「いやあ、これAIでしょ? わかんねん!」

そう言われると、正直むっとする。だからなんやねん、悪いんか、と。でも腹を立てる前に、冷静に認めないといけないことがある。たしかに“AIでしょ”と言われがちな成果物には、共通の作られ方がある、ということだ。

「これAIでしょ」の正体は、雑な投げ方にある

たとえば、何の指示もせずに「画像作って」「サイト作って」「アプリ作って」と雑に投げる。すると返ってくるのは、はいはいはい、いかにもAIですね、という総花的なやつだ。誰にでも当てはまって、誰にも刺さらない。

で、そういう時に必ず出てくるのが、こういう声だ。

「画像もな、やっぱり写真で撮った方が、ここのシワ感とかな……」

「サイトもやっぱり、デザイナーが作った方が……」

「アプリも、仕様がうんたらかんたらで、人間じゃないと……」

言いたいことはわかる。わかるんだけど、ちょっと立ち止まってほしい。

それ、人間に頼む時も同じですよね

冷静に考えてみる。撮影でも、デザインでも、開発でも、人にお願いする時だって、材料を出して「こう!」と決めた方が、発注者のイメージに近いものが上がってくる。

どういう画にしたいか、どんな光でどんな質感で撮りたいか。どういうトーンのデザインで、誰に何を感じてほしいか。どんな機能で、どんな体験にしたいか。この“材料=コンテキスト”を出せる発注者と、「いい感じで」しか言えない発注者とでは、同じプロに頼んでも仕上がりがまるで違う。

AIでも、まったく同じなんです。

しかも、だ。さっきの「写真の方がシワ感が出る」という話。いまの画像AIは、質感やシワの一本まで、指定すればかなり出せる。つまり差は“能力”じゃなく、“どこまで指定したか”に移っている。「アナログの方がいい」と感じている多くの場面は、実は「アナログの方がいい」のではなく、「そっちの方がコンテキストを詰めて発注していた」だけなのだ。

ここに、AIならではの落とし穴がある。簡単に作れてしまうから、材料集め・コンテキストを固める工程が、するっと省略される。人間の職人に頼む時は、打ち合わせや見積もりの過程で嫌でも要件を言語化させられた。AIはそれをスキップして即・生成できてしまう。だから雑に投げる。だから“AIでしょ”が量産される。入力の解像度が落ちた分、出力の品質が劇的に落ちているだけなのに、それを「AIだから」のせいにしている。

これからの必須スキルは、「手を動かす」から「こうと決める」へ

だとすると、AI時代に価値が移るポイントもはっきりする。手を動かす技術そのものより、「何を・どういう狙いで・どんな基準で作るか」を言語化し、材料を集め、こうと決める力だ。

しかもAIは、速く・安く・何度でも試せる。だから良いコンテキストを用意した人ほど、反復して詰められて、リターンがどんどん大きくなる。逆に「いい感じで」しか言えない人は、何回生成しても“いい感じのそれっぽい何か”から抜け出せない。同じツールを使っているのに、差が開く。その差の正体が、コンテキストなのだ。

「でも、手を動かす仕事は残るでしょ?」

ここで、こういう反論が来る。「デジタルの話はわかった。でも結局、現場で手を動かす仕事——職人や大工——は人間しかできないよね」と。設計はAIでもできる、けど組み立てるのは人間だ、と。

たしかに、いまはそうだ。でも、そこにタカを括っていると、たぶん足をすくわれる。フィジカルAIが本格化したら、どうでしょう。

フィジカルAIは、なぜ「来る」のか。そして、なぜ「すぐ全部ではない」のか

フィジカルAIというのは、ざっくり言えばAIが物理世界を認識して、身体で行動する方向のことだ。ヒューマノイドロボット、ロボットアーム、自動運転などがここに入る。ここ数年、この分野の進み方が明らかに変わってきた。理由はいくつかある。

  • ロボットの“基盤モデル”化。 これまでロボットは「この作業専用」に一台ずつプログラムしていた。いまは、大量の作業映像や人間のデモから、汎用的な「見て・言葉で理解して・動く」能力(Vision-Language-Action)をまとめて学習させる方向に進んでいる。言語モデルが文章を汎用的に扱えるようになったのと同じ流れが、身体制御で起きはじめている。
  • シミュレーションで“場数”を稼ぐ。 現実で何万回も練習させるのは大変だが、仮想空間なら失敗し放題だ。仮想で鍛えて現実に移す(sim-to-real)ことで、学習の回転数が跳ね上がっている。
  • ハードが安く、量産に向かっている。 ヒューマノイドの価格が下がり、複数社が量産を口にしはじめた。頭脳(AI)の進化に、身体(ハード)のコスト低下が追いついてきた。

——と、ここまでは「来る」側の話。ただ、正直に言うと、物理はデジタルより、はるかに難しい。ここを盛らずに書いておきたい。

有名な逆説に「モラベックのパラドックス」がある。人間にとって難しい計算やチェスはAIには簡単なのに、人間が無意識にやっている歩く・掴む・散らかった現場で臨機応変に動くといった動作こそ、AIには恐ろしく難しい、というものだ。整った工場のラインならともかく、天候も足場も毎回違う建築現場のような不定形な環境は、まさにこの難しさの塊だ。加えて、安全性、故障、コスト、現場ごとのばらつき——ハードルは多い。

だから現実的には、ブルーカラーの置き換えは、ホワイトカラーより遅く、そして不均一に進む。定型的で構造化された現場から順に、じわじわと。「明日いきなり大工が全員いらなくなる」ではない。でも、方向は不可逆だ。「組み立ては人間しかできない」という砦も、時間をかけて確実に削られていく。そして、まさにその“まだ削られていない時間”においてこそ、人間の器用さ・判断・現場対応力に価値がある。それが、いま「アナログ」と呼ばれているものの正体でもある。

「アナログの方が」と言う人の仕事は、現在進行形で消えている

厳しい言い方になるが、「やっぱりアナログの方がいい」と今いちばん声を上げている人たちの仕事は、まさに今、少しずつ無くなっていっている。それは感傷ではなく、進行中の事実だ。

その上で、私が言いたいのはこうだ。アナログは、(今の)品質担保として大事である。AIの生成物の“最後の一押し”を効かせるのも、AIがまだ届かない現場を埋めるのも、いまは人間だ。だから今は、アナログとAIは対立ではなく、アナログが品質の基準線を引き、AIがそこに高速で近づいていくという関係にある。問題は、その基準線が年々AI側にずり下がっていることだ。

「アナログにしかできない」が消える時が、本当のシンギュラリティ

最後に、いちばん言いたいことを書く。少し長くなる。

私たちはこれまで、AIが何かをできるようになるたびに、線を引き直してきた。チェスに負けたら「本当の知性は将棋だ」、将棋も囲碁も抜かれたら「creativity=創造性は無理だ」、絵も文章も書けるようになったら「でも“味”がない」「現場の手仕事は無理だ」——と。AIが到達するたびに、「それは本物じゃない」とゴールポストを動かす。これは「AIエフェクト」と呼ばれる、とても人間くさい反応だ。「アナログの方がいい」という擁護も、実はこの後退戦の最新版でしかない。

だとすると、シンギュラリティの正体も見えてくる。難しい定義はいろいろあるけれど、個人的にはこう思っている。「これはアナログにしかできない」「これは人間にしかできない」と言われていたものが、ひとつ残らず置き換わった時——その、後退させ続けてきたゴールポストがついに壁にぶつかって、もう動かせなくなった時が、本当の意味でのシンギュラリティなのだろう、と。

でも、これは悲観の話じゃない。手を動かす工程が次々と置き換わっても、「何を作るか」「どういう体験にしたいか」「これでいい、これはダメ、と決める意志と美意識」——つまりコンテキストを定義する力は、いちばん最後まで人間の側に残る(少なくとも、最後まで残るものの有力候補だ)。撮影の技術がAIに移っても「どう撮りたいか」は残る。実装がAIに移っても「何を作りたいか」は残る。組み立てがAIに移っても「どんな空間にしたいか」は残る。

だから、いま鍛えるべきは、アナログへの懐古でも、盲目的なAI崇拝でもない。コンテキストを詰める筋肉だ。皮肉なことに、「これAIでしょ?」と言われないものを作る唯一の道は、AIを避けることではなく、誰よりもコンテキストを詰めることにある。そしてそれは、AI時代にいちばん長く人間に残る仕事、そのものなのだ。

Web制作・AI導入のご相談はこちら

FREETANCEでは、AIを活用したWeb制作や業務効率化の支援を行っています。
お見積もりやご相談など、お気軽にお問い合わせください。